いつも当たり前のように顔を合わせて、当然のように近くにいた友達がいなくなるのはどうにも悲しい事だ。ケリーに対しての想念に僕が捕われている間にも、世間はいつもと同じように、何事もなかったかのように日常が流れて行く。正直、昨年十二月に他界したZbigniew Karkowskiのことだってまだ現実感がないのに、時折元気そうな様子の写真をFacebookに載せていたケリーとなると尚更だ。
それにしても、長い闘病生活だったと思う。普通の精神状態だったらとっくに心が折れていたと思うし、身体的な苦痛もや負担も尋常ならざるモノだったのでなかろうか(告知を受けてから数度の手術にも耐え何度も復活してきた事自体がもう奇跡であったと思うけど)。制限ある生活を強いられることは当然の事ながら、音楽活動でさえも取り上げられてしまったことがケリーにとって一番辛かったんじゃないかと思う。「僕には音楽しかないし、音楽しか出来ない」。そう、ぼそっと呟いたあの切実感に迫った表情を思い出す。それに対して何も言葉をかけてあげる事が出来なかった自分の無力感にも似た虚しさ。
ケリーを一言で表すなら「誠実」という言葉が思い浮かぶ。全うな音楽一家に生まれながらケリーだけがなぜか日本の実験音楽に惹かれ、特に日本製ノイズを凄く愛してくれた。ノイズのみならずジャズから歌謡曲まで幅広い音楽に精通し、マスタリングエンジニアとしても確かな手腕を発揮した。友人に対しても音楽に対しても、常に真摯に接してくれた心優しいカナダ人。カナダ人とか日本人とかこの際どうでもいい事だけど、一人の人間として好きな事に真剣に打ち込むアーティスト特有の美しさを秘めた男であったということは紛れもない事実である。海外アーティスト来日の際、どうにも手に負えなくなった僕はよくケリーに話を振って彼らの面倒を見てもらったりした。レコード屋やライブハウスとかいろいろ連れて行ってくれたり、困った時は彼らを泊めてくれたり、嫌な顔一つしないで面倒を見てくれたりした。ケリー自身がとても楽しんで世話をしてくれているのが僕にも伝わってきたので、それでまたこちらまで嬉しくなったりもした。音楽演奏に際しても決してエゴを押し付けて共演者たちを押さえ込んだりしないで、相手の良さを引き出すように演奏の流れを変えるきっかけを作ってくれるのが本当に上手かった。ライブ演奏全体のバランスを取るために時には背後に回ってバッキングに務めたり、演奏が予定調和で空回りし始めた時は敢えて起爆剤となるような音をぶち込んできたりしてくれた。常に全体を客観的に見つめ、ショウとして完成度を高める事に関しては、本当にプロフェッショナルな意志を持ったアーティストであった。
ケリーと知り合ったのは確か、Hospitalというバンドでライブをしたいのでブッキングしてくれませんか?という手紙であったはずだ。たぶん1999年か2000年頃だった気がする。今と違ってコンタクトの手段がエアメールであった時代。時代と言っても十数年くらい前の話だが、それからコミュニケーションの手段は目まぐるしく進化した(だけどノイズ製作に関してはデジタルになろうかアナログであろうが、ノイズには変わりない。ノイズシーンはいつまでたってもノイズを放出し続けている)。
初対面の印象は正直言ってあまり覚えていない。その頃から日本語を話していたような気もするが、晩年程の完成度はまだなかったはずだ。ただ、Hospitalの演奏は覚えている。ハーシュノイズが主流となりつつあった九十年代後半のノイズシーンで、トリオでジャズっぽいアプローチを含みつつ即興演奏として飽きさせない質の高い演奏を披露してくれた事が僕にとってはとても新鮮に感じられた。そして蒲田にある元キャバレーを派手な内装のスタジオ80という場所で、対番に僕のバンドとインキャパシタンツとKK.NULL氏とMERZBOW 秋田氏によるチベタユービックと、今ではもう実現不可能なメンツの中で本邦初ながら鮮烈な印象を残してくれたことは主催者として喜ばしい限りであった。
ケリーは優しすぎるから、もっと悪人になった方がいいよ!と何かの拍子に彼に言った事があったが、僕は悪人にはなれません。と即答された事もあった。そう、ずっと優しくて誠実で、ずっと日本のノイズを愛してくれた男。彼と出会えていろいろと共有する時間が持てた事はとても誇りに思う。
ありがとう!ケリーチュルコ!
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